情熱を持って何かに打ち込むためには、そこに楽しみや喜びを見いださなくてはなりません。
物事に打ち込む情熱は、楽しむ心から湧き出てくるものだからです。
スポーツに限ったことではありませんが、何か一つのことに取り組むとき、ただつらいだけ、ただ苦しいだけ、これでは継続することができません。
もしそこに楽しみや喜びを全く見いだせないとしたら、自分のやっていることを見直す必要があります。
幼少の頃、私が住んでいた南アフリカではアパルトヘイト(人種隔離政策)が廃止され、大きな変革の時期を過ごしました。
アパルトヘイトの撤廃は、世界中から賞賛された素晴らしい政変でした。しかし、この大変革はスポーツにも多大な影響を及ぼしました。それまで交わることをしてこなかった白人と非白人がある日を境に、一つのチームで、一つの競技場で、一つのリーグでプレーするように動き出すことになったからです。
その過程で、様々な競技において一定数の非白人選手をチームに入れなければならないといったような、新しいルール作りがなされました。このような変化によって、人々のあいだに全く混乱がなかったとは言えません。しかし、明るい未来、新しい時代に向かって国全体が歩み始めたことは間違い無いのです。
そんな変革の中で、私はホッケーを始めました。「非白人枠のおかげでレギュラーになれたんだ」と周囲に思われることがとても嫌だったので、「実力でレギュラーを勝ち取った」とみんなを納得させられるよう、とにかく一生懸命にトレーニングに励みました。
ただ、認めてもらいたいという気持ちがある一方で、ここまでホッケーに情熱を持って続けてきたのは、そこに楽しみがあったからだと思うのです。
© Koen Suyk
私は、ホッケー選手であり教師でもあった母の影響でホッケーを始めました。
母はとても優秀なホッケー選手で、40歳近くまで現役でプレーしていましたが、選手としてピークの頃は、まだアパルトヘイトの時代だったので、残念ながら国の代表として国際舞台で活躍するチャンスを得ることは叶いませんでした。
それでも、母にとって現役最後のシーズンが、私の国内リーグデビューと重なったため、一シーズンを共にプレーすることができたのは私たちにとって忘れがたい思い出です。
それから4年後18歳になった私は、国の代表チームに初選出され、国際戦デビューを果たし、アテネ2004オリンピック大会にて初めてのオリンピックを経験することができました。そのとき母は、マネージメントチームの一員としての役を担っていたので、一緒にアテネに行くことができました。
母は、“真のチームプレーヤーとは何か”を教えてくれました。
目標達成のためには自己を犠牲にする必要があること。
そして、“冷静な自己分析の重要性”を教えてくれました。
行き詰まったときは、一歩引いて自身を俯瞰し、解決策を探る必要があること。
母からの教えは、ホッケー選手としてだけでなく、フィールドを離れた日常生活においても活かすことができることも数多く、私の人生に大きな良い影響を与えています。
私にとって母は、ホッケー選手としてだけでなく、一女性として、子を持つ親として、唯一無二の憧れのロールモデルです。
2015年、32歳のときに私は現役から退きました。
現役生活の晩年は、オランダのプロリーグでプレーしながら、南アフリカ代表チームでもプレーしていたため、1年の半分をオランダで過ごし、もう半分を南アフリカで過ごすといった生活スタイルになっていました。ただ、2013年にオランダ人の男性と結婚してからは、拠点を完全にオランダに移しました。
2015年の引退後は所属していたチームのマネージャーも務めていましたが、1歳半になる娘と過ごす時間とのバランスをとることに限界を感じ、今シーズンでマネージャー業からは身を引くことにしました。
それでも、2014年に就任した国際ホッケー連盟(International Hockey Federation:FIH)のアスリート委員長としての活動は今後も続けていきます。アスリートの声をFIHに届け、アスリートを最優先に考えるスポーツの実現に貢献したいという強い思いがあるからです。
アスリートを最優先に考える世界。その中で、ドーピングや腐敗の根絶は大きな要素であるといえます。
クリーンアスリートとそれを応援する人たちにとっては、競技が常にフェアな条件下で行われることは、理想ではなく、当然の権利なのです。
そのような環境を整備していくために、そして信頼性を高めるために、より密接にアスリートと連盟が協力して活動していくことが求められます。
具体的に言えば、若い年代から始めるアンチ・ドーピングを含めた教育です。何が良くて何が悪いのか、ドーピングとは何かということをしっかり明示し、正しい情報を与えてあげることがとても重要です。
そして、クリーンなスポーツの実現に対して、アスリート自身が声を上げる必要があるのです。そのような観点からも、私自身がFIHのアスリート委員の立場として果たすべき責任は大きいと感じています。
母国の南アフリカ共和国に関しては、国民は、この23年間、肌の色や異文化の垣根を越え、一つになることの素晴らしさを学んできました。しかし、それまでの長い歴史を考えると、まだまだ最近の出来事と言えます。国が変革し、時代が移り変わっても、古い考え方が人々の頭のなかから完全に消えるには長い時間がかかります。
例えば、南アフリカの代表チームで14年間プレーしてきた私の功績を「非白人の」という形容詞をつけ、讃えること。今後その形容詞が人々の意識の中から自然となくなっていくことを願いますし、そこにスポーツが果たせる役割は大きいと思います。
そして、世界的なトピックですが、女性の社会進出における問題が解決されることに期待しています。これは、国際オリンピック委員会のアスリート・フォーラムへの参加や、FIHで様々な人たちと仕事をしてきたことを通して感じていることです。
昨今、各国各地で社会的な問題提起され、改善の方向に進んでいるとは思いますが、まだまだ進歩の途上です。スポーツにおいても同様です。アスリートだけでなく、スポーツのマネジメントにおいても、男性と女性の扱いには大きな差異があります。
女性と男性にはもともと身体的な差異があり、その点においては必ずしも同等ではありません。しかし、時間や労力を費やして何かに取り組み、最善の力を発揮し、同様に犠牲を払うという点においては、ひとりの人間として同等です。男性にできて女性にできないことは多々ありますが、その逆も然りです。
女性の大変さも同じく理解され、そこに同様の敬意が払われ、信頼されるべきだと思うのです。
現在も、女性の社会進出についてのメッセージの発信や、キャンペーンへの参加を行っていますが、今後、女性が男性と同様に輝ける社会そしてスポーツが近い未来にあることを切に願います。
私は、国の代表メンバーだった14年間のなかで、2006年から約10年間、キャプテンとして多くの試合を戦ってきました。
私のキャプテンシーを一言で表すと、『背中で引っ張る』です。
性格も能力もそれぞれ違う選手たちを率いるためには、まず自己犠牲をいとわないことが大切です。時間をおしまず選手個々と対話し、時には優しく励まし、時には厳しく鼓舞する姿勢を持って相対することが求められます。
チームとして困難な状況に陥ったときは冷静に状況をとらえ、たとえそれが自分個人としては最善の策でなかったとしても、チームとして選択すべきことを最優先に決断することが必要です。
そして何よりも重要なことは、自らがホッケーを純粋に楽しむ、その姿を見せることです。
楽しむ心から湧き出る情熱は、キャプテンとして矢面に立つ覚悟のチカラにもなるはずです。
苦労の尽きない役割ではありますが、キャプテンはひとりぼっちではありません。自分ひとりですべてを背負い込む必要はありません。必ずそこには助けてくれるチームメートがいます。
このチームスポーツを通して学んだ考え方は、私の生き方そのものとなっています。
なぜなら、チームは、スポーツのフィールドだけではなく、日常、社会にも存在するのですから。
1983年 南アフリカ共和国に生まれる。
ホッケー選手である母の影響もあり、6歳からホッケーを始める。
18歳で国際戦デビューを果たし、32歳の引退までの14年間で3回のオリンピック(アテネ2004大会、北京2008大会、ロンドン2012大会)出場を含む、330試合以上の代表キャリアを誇り、国際ホッケー連盟(International Hockey Federation:FIH)のベスト11に3度、選出された。
2017年の現在は、オランダのホッケーコーチである夫と1歳半になる娘とともに、オランダで生活を送りながら、FIHのアスリート委員長として、アスリートを最優先に考えるスポーツの構築に尽力している。