© Yuki Saito
私が競技生活を通じて学んだこと。それは、自分に打ち克つマインドです。オリンピック初出場を目指していた頃、私は世界の誰よりもハードだといえる、自分の限界を超えるトレーニングをしていました。コーチからは「なぜもっとやれないのか?」と言われ、逆に「やってやろうじゃないか」という気持ちになり、自分自身の限界をさらに超えたいと思えるか、自身の限界を超えていくことができると信じることができるまでになっていきました。自分自身の限界以上を引き出そうとする優れたコーチがいる ― 問題は自分自身で、厳しいトレーニングに対する自分の姿勢であり、自分に積極性がどこまであるかということ。勝つために必要なことは、自分との闘い、さらなる限界を超えるために練習をする勇気を出すこと。敵は誰でもない、自分だということに気づきました。自分自身と闘い、挑戦し続ければ、自分ができると確信していることよりも、はるかに多くのことができる ― これこそがスポーツです。
私がオリンピックに出場した1960~1970年代と今とでは、アスリートのトレーニング環境が随分変わってきています。私が苦学生ながらも学業に加え、トレーニングもしていた当時は、国際大会に行けたのは良くて年1~2回程度。今はアスリートには政府からの助成金も出て、最先端の技術やトレーニング環境もある。スポンサーシップも得て競技だけに集中することもできる。私の時代とは違う素晴らしいライフスタイルだと言えます。でも、アスリートの中には競技を重視するあまり、引退した後20代・30代になって社会の中で生計を立てることができるだけの教育や実務経験がなく、スポーツ以外にしたいことがないという状況に陥る人がいます。今のアスリートたちに伝えたいことは、なによりも「バランス」が重要-当面のアスリートとしてのキャリアとその後の人生のバランスが最も大切です。ということです。
私は学生の時期に、焦点を絞り込み、様々な規律を持って、探求したいことを集中的に追い求め、自分が実現したいことを努力で実現させたいというプライドを常に抱き、闘ってきました。私自身は学生としてはよくやっていた方かもしれませんが、大学院に入ってから初めて生理学が面白くなり研究に没頭するようになりました。シングルスカル(ボート)で1968年メキシコ・オリンピックに出場しましたが、この時期はコーチもなく一人トレーニングをしていたので、とてもハードでした。「人生の中でもっと大切なことがあるのに、本当にこんな苦労をしてトレーニングをしたいのか?」と自分自身によく問いていました。人生の新しい局面を迎えたら、さらに目標を持ち挑戦し続ける。この姿勢も私がスポーツを通して学んだこと。だからこそ私はこの年齢になっても、次なる挑戦をするパッションを持っています。
アスリートには、競技人生を終えた時に自分を見失わずに別のことにチャレンジできるよう、バランスを考えて人生を歩んでいってほしい。色々なことに関わっていくこと。社会に貢献すること。他の人が自分のやりたいことを成し遂げるために少し手助けをすること。他の人に機会を創ること-さまざまなことができると思います。
© Roger Jackson
私が参加した東京1964オリンピック競技大会は、日本が世界に「復興」と「平和」を伝えたいという気持ちに満ち溢れ、多くの子どもや街中の人たちが歓迎してくれたとても心温まる大会でした。今でも開会式はじめ全てのことを詳細に覚えています。この様々な意味で記念すべき1964年大会で、私は金メダルをとり、メディアの取材を終えて選手村に戻り、ボートのパートナーと静かに夕食を二人だけでとっている時にも、「俺たち、一体何をしでかしたんだ?」と話したのを覚えています。
続く1968年メキシコ、1972年ミュンヘン・オリンピックにも出場しました。思い返せば、お金がないながらもボート競技と大学での研究というやりたいことに没頭した11年間でした。言うなれば私の20代から30代は人生の中で「自己中心的な時期」。研究とボート、ボートで試合に出場するために遠征をすること。全てが私自身のことであり、とても特別な時期でした。
競技生活を終えコペンハーゲン大学で研究員として働き、カナダ政府初のスポーツ専門機関であるSport Canadaのディレクターのお声が掛かり、国レベルのスポーツシステムを整備しました。また、カルガリー大学の体育学部の学部長として迎えられ、多くの施設や研究センターを創設しました。同時に、資金調達に長け、政府関係機関やスポーツ関連のイベントにも詳しかったことから、カルガリー市から冬季オリンピック招致活動への協力を依頼され、1988年カルガリー冬季オリンピック競技大会の招致をリードし成功しました。カナダ・オリンピック委員会の委員長も務めていた当時は、大学の学部長、1988年オリンピック組織委員会のエグゼクティブメンバーの3足のわらじで、多忙を極めた10年間でしたが、その中で今につながる様々なドアを開けてきました。
私は生来の「まとめ役(organizer)」なのだと思います。この気質がどこから来るのか分からないのですが、私自身が「こうあるべき」と思うことが、往々にして誰にも気づかれず、取り上げられないことについて、信念をもって自分もしくは少人数の仲間と解決し機会を作ってきました。
私にとって重要なのは、自身の努力、自分が達成しようと思ったことに誇りが持てるか、ということ。勝ち負けが問題ではない。スポーツに勝利と敗北があるように、人生における挑戦にも、勝利と同じだけ敗北がある。
私は様々なことに挑戦して失敗もしましたが、挑戦が楽しく、素晴らしい成功体験も数多くあります。ボートレースで、倒れる寸前になって漕ぎ続けたが負けたこともあるし、簡単に勝ったこともある。だからこそ、自ら関わっていくこと、コミットすること、役に立つこと、助けること、人に機会を作ることが大事なのだということをスポーツを通じて学び、人生における本来の意味での「教え」であったと思います。
© Yuki Saito
ソウル1988オリンピック競技大会で、カナダのベン・ジョンソンが禁止薬物の使用により金メダルをはく奪された時、私はカナダ・オリンピック委員会の会長でした。過ちを繰り返さないために、カナダ政府は直ぐに動き、1991年に世界初の独立した国内アンチ・ドーピング機関を立ち上げました。しかしアンチ・ドーピングの取り組みは、「真のスポーツがあるべき姿」を追求するための一部であり、スポーツ全体の「倫理(ethics)」を司る組織が必要だということに直ぐに気づきました。つまり、フェアプレイ、インクルージョン、男女平等、誠実さ、リスペクトといった、スポーツが適切に推進されれば、スポーツが素晴らしい価値をみんなにもたらす、ということ。そして、名称を“Canadian Centre for Ethics in Sport (CCES: カナダ・スポーツ倫理センター)”へと変更しました。スポーツの倫理教育を実現させるために、 チャリティー組織の“True Sport Foundation(トゥルー・スポーツ財団)”も設立しました。これは倫理教育資金を集めるための財団で、スポーツが持つ素晴らしい価値を子どもからお年寄りまで一人一人に浸透させ、強いコミュニティを作ることが目的で、スポーツ振興のためのものではありません。
そして、カナダのスポーツのあるべき姿について調査を行い、スポーツの本質をとりまとめたものが「TRUE SPORT」という言葉。これは真の価値を伴うスポーツ(Sport with Values)を意味しており、「挑戦」「フェアプレイ」「他者へのリスペクト」「Fun」「ヘルス」「インクルーシブ」「社会貢献」の7本の柱で構成されています。今は、カナダだけでなく、IOCや世界の国の省庁などが、スポーツの持つ価値を伝えるために様々なレベルで活動を行っています。しかし、スローガンを掲げるのは簡単で、誰もが素晴らしい、協力すると言いますが、アスリートの親やコーチなど、スポーツシステムの中にいる人たちのみならず、子どもたちの日常的なスポーツの場や学校、コミュニティ、そして社会全体にその考えを浸透させることは容易ではありません。最も難しいのは、個々人がそれら真のスポーツの価値を理解した上で、自ら実際に行動に移し、その価値を発信することです。あなたと私が、親として、コーチとして、あるいは他の何かの役割を持つ者として、一緒に活動する子どもたちや他の人たちにその価値を伝えていかなければなりません。
子どもが育つ環境は、楽しくて安全でなければなりません。私にとっての最重要課題は、スポーツがもたらす真なる価値を浸透させること。True Sportとは、いじめもハラスメントもない、平等で他者へのリスペクトのある安全なスポーツ環境の実現であり、社会の実現です。各機関がより密に連携し倫理教育に取り組み続け、そのための変革をもたらす。私の考えでは、まだまだ道半ばです。
© Yuki Saito
今はスポーツそのものも、アスリートをめぐる環境も急速に変化しているとても面白い時です。特にアスリートの存在は、私がアスリートだった頃と大きく変わっています。何十年も前に、カナダのオリンピック委員会にアスリートの声をもっと真剣に受け止めるべき、そしてその声を効果的に伝えるためにアスリートに多くの機会を与えるべきだと提言していました。いずれ世界でそんな時代が来るとも示唆していました。今正に、アスリートたちはソーシャルメディア等を使って直接公に自分の言葉でメッセージを発信しています。実際に、アスリート委員や他のアスリートグループらによって、アスリートの機会を拡げ、フェアネスや真なるスポーツの価値を推進し、アスリートの声は大きな変化をもたらす力となってきている。アスリートは自分たちに権利があり、自分たちの声に力があることを良く理解するようになりました。彼らの声が実を結んだ例としては、IOCアスリート委員会の「アスリートの権利と責任に関する宣言 (Athletes’ Rights and Responsibilities Charter)」や、2021年より世界アンチ・ドーピング規程に付随する「アンチ・ドーピングに係るアスリート権利章典 (Athletes’ Anti-Doping Rights Act)」の採択があります。私はアスリートがリーダーになって良い変化をもたらしてくれることに大いに期待し、そのためのサポートをしていきたいと考えています。
アスリートの発信力だけでなく、オリンピック競技種目もまた、変化の時を迎えています。例えば冬季オリンピックでは、スノーボードやレールスキー、エアリアルなどXゲームを取り入れ、より多くの若者を魅了する方向に向かっています。世界の若者たちの動向、プロモーションなどの観点から、夏季、冬季の両方で競技種目を変更する必要性が今後さらに出てくるでしょう。ただ、これらすべて変革のうねりの最終目標は、だれにとっても楽しいスポーツの実現であるべきです。安全で楽しいスポーツ環境を、若者に、コミュニティにいかに提供することができるかということです。
© Yuki Saito
これまで長きに渡り大学におけるスポーツ教育の拡充やオリンピックの招致・開催準備等に関わってきた中で、多くのプロジェクトを立ち上げ、資金集めなどに奔走してきました。私は生来「ビルダー (builder)」です。そして私は、「機会(opportunity)」という言葉が大好きです。私は学生たちに、スポーツに、NPOに目標達成のための道筋を創ってきました。私にとって、報酬は必要ありません。誰かが「ありがとう」と言ってくれればそれで良いのです。
アメリカのオバマ前大統領がカルガリーで講演をした時、「若い人たちにどのようなアドバイスがあるか?」とある若者に聞かれ、「良い人であれ。人の役に立て (Be nice, Be helpful)。」とアドバイスしました。私が心がけてきたことも本質は同じ。誰もがお互いを思いやり助け合えば、どんなに世界は素晴らしくなるでしょうか?それは望みさえすれば誰にもできることなのです。
私たちは皆、自身が思い信じているよりも、より良い自分になることができます。私のコーチが私を励ましさらに高みを目指すようプッシュしてくれたように、私は人々に前に進む勇気を与えたいと考えています。本当にやりたいことや、なりたい自分について考える時間を与え、アイディアを共有する。彼らが目標を定める手助けをし、少しでも多くのドアを開けてあげたい。「あなたの機会は正に目の前にあるのだ」ということに、気がついて欲しいのです。
17歳の時、西オンタリオ大学に入学、ボート競技を始める。22歳で1964年東京オリンピック競技大会に初出場。メキシコ、ミュンヘン大会と計3回のオリンピック競技大会に出場する。
引退後は、Sport Canadaでカナダのスポーツシステムを構築、カルガリー大学の体育学部長などを務める。1982年から1990年の3期に渡りカナダ・オリンピック委員会の会長やカナダのアンチ・ドーピング機関CCESの会長を務めた。そして、カルガリー、長野、ソルトレイクシティ、ロンドン、東京など、オリンピック開催の立候補地や開催都市に相談役としても貢献。