PLAY TRUE 2020

PLAY TRUE 2020

© Keita Yasukawa

Truth in Sport

スポーツが導いたポジティブな人生

私には、眼皮膚白皮症という病気のため、生まれつき視覚に障がいがあります。ただ、私の両親は決して自分の障がいをスポーツに参加しない言い訳にさせてくれませんでした。野球やサッカー、バスケットボールなど、様々なスポーツを経験したなかで虜になったもの、それが水泳でした。私にぴったりでした。まさに自分の居場所だと感じました。水に潜ったときの静けさ、そしてストロークをして、水をきって進む感覚がとても好きでした。水泳に関わる人々、水泳の価値観、そして雰囲気。水泳を始めた瞬間から2011年の引退まで、そのすべてが大好きでした。

スポーツは多くの面で私を変えました。水泳は、想像もしなかった、様々なことを達成する機会を与えてくれました。世界中を飛び回り、多くの文化に触れ、自分の国のために競い、パラリンピックに3度も出場、そこで合計12個のメダルを獲得したこと、そしてインクルーシブな社会やパラリンピック・ムーブメントの旗振り役。結果、IPC(国際パラリンピック委員会)のアスリート委員長を務めることになりました。

偏見の目で見られ、世間の人たちや社会から異なる扱いを受けることは、障がい者にとってつらいことです。視覚の障がいを理由にできないだろうと決めつけられたり、周りの人たちよりも低い目標を設定されたりしたことも、たくさんありました。ただ、私はそれらをエネルギーにして、そういった障がいについての誤った考えを転換してきました。スポーツは、常に頭を上げ、すべてのポジティブな経験、ネガティブな経験が形作る自分という人間に誇りを持ち、全力を尽くすことを教えてくれました。

True Moment in Sport

チェルシー・ゴテル Chelsey Gotell

© Chris Hyde

age
1986

反骨心をエネルギーに変えて

水泳との出会いは8歳のときでした。両親は、視覚障がいのない兄と同じように私を育てました。やりたいことに自由に挑戦させ、倒れれば立ち上がれるよう、支えてくれました。兄がバスケットボールをすれば、私もバスケットボールを。兄が野球をすれば野球を。視力が必要だろうとなかろうと、彼がやるように、私もあらゆるスポーツがやりたかったのです。

地元のスイミングクラブに所属してから3年ほどたった頃、メダルを獲得したある大会で、 コーチとライバル選手の会話に居合わせてしまいました。その時、コーチは私に敗れた選手に、なぜ「盲目の選手」に勝てないのか、と叱っていたのです。

初めて体験した差別でした。それまで自分は他の子たちと何ら変わらないと思っていましたが、突然私は、自分は全く違うのだと意識しました。それが私の人生のターニングポイントです。

そこには、「人と違う」自分という、新しい世界が待っていました。ふさぎ込んだり、自分の障がいを嫌ったりしたかもしれません。あるいは、障がいを受け入れ、人間として成長させてくれるものだと思えるかもしれません。幸い私は後者を選択しました。この時に培った反骨心が、その後3度のパラリンピック大会に出場するまで頑張れたエネルギーであったと思います。

チェルシー・ゴテル Chelsey Gotell

© Keita Yasukawa

『きっかけ』をつかむ『きっかけ』

いま、人々の障がい者に対する考え方は、確実に変わってきています。良い方向に進んでいるとは思いますが、改善の余地はまだまだ残されています。障がいがあることはマイナスで、制約があると捉えられています。社会における障がい者への偏見がなくなればなくなるほど、差別はなくなっていくはずです。私たちはそれぞれ異なる能力をもっています。すべての人々をあるがままに認め、受け入れ、前進する機会が等しく与えられる社会を実現する必要があります。

子どもが十分に可能性を発揮し、その能力を活かすには、家族の役割が重要です。障がいのある子どもにとっては、さらに大切です。もし家族が何も挑戦させないと決めつけてしまったら、子どもが才能を発揮することはできないでしょう。どんな能力を持つ子どもでも、新たな活動に挑戦し、自身の得意・不得意を見つけられるよう、背中を押してもらうべきです。

私は、様々なことに挑戦する『きっかけと自由』を両親から与えられたことで、人ととなりを形作るものを手にする『きっかけ』をつかみ取ることができました。

以前は、障がいがあるかわいそうな人たちがプールを泳いでいる、といったある種の哀れみのような気持ちを持って、パラスポーツが見られていたように思います。しかしパラアスリートの飛躍的な競技レベルの向上にともない、今や、れっきとしたスポーツイベントとして、確固たる地位を確立しつつあります。人々はパラアスリートのパフォーマンスの素晴らしさに心を動かされ、パラスポーツの持つ可能性の大きさに気づき始めています。

そんな発展途上のパラリンピック・ムーブメントに、IPCアスリート委員長として携われている現在の自分を、とても誇りに思っています。
パラスポーツだけではなく、すべてのスポーツが今後更なる発展を遂げるためにも、現役アスリートや次世代のアスリートは、建設的かつ効果的に発言する機会を持つべきです。 アスリートの意見をしっかりと汲み取り、意思決定に反映させること。こうすることで、スポーツはより素晴らしいものになり、より深く人々に浸透していくはずです。

FUTURE

現役のアスリートたちと共に

目覚ましい発展を遂げているパラスポーツですが、私たちパラリンピックに関わる人々が一丸となって取り組むべきことは数多くあります。なかでも、クリーンスポーツ、クリーンアスリートを守ることは、最たるものです。

アンチ・ドーピング活動を行うだけでは十分ではありません。アスリート自身の権利と責任についてアスリートを教育する独自の方法を確立することが重要です。万が一、名誉が傷つけられ、責任を果たせないような状況に陥ったアスリートを守れるような、より確実で信頼できる道筋を作っていく必要もあります。また、アンチ・ドーピング規則違反になった場合には、アスリートの周囲の人々への問いかけを促し、アンチ・ドーピングの意識や責任感を高めるような、より強固な仕組みが必要だと思います。

さらに、アスリートたちは、自身がスポーツの中心にいること、そして建設的な意見を発信することの重要性を自覚しないといけません。そのためには、単に不平不満をこぼすのではなく、自分たちの権利を知り、明確で論理的な意思表示ができるようにならなくてはなりません。それを導くことが、私たちIPCの大きな役割のひとつだと思っています。

私が全ての人の代弁は出来ませんし、みんなが私自身や私の意見に共感してくれるわけではありませんが、誰か別の人やその意見にはつながりを感じるかもしれません。ただ、アスリートたちをスポーツの輪の中心に置くことが重要です。スポーツ界の主役であるアスリートたちが常に中心的な役割を果たし、パラスポーツの振興に努め、スポーツという素晴らしい文化を正しく社会に広められるよう、尽力していきたいと思います。スポーツをきっかけに人々が考え、社会がより良い方向に進んでいけば嬉しいです。

チェルシー・ゴテル

© Keita Yasukawa

Truth in Me

チェルシー・ゴテル Chelsey Gotell チェルシー・ゴテル Chelsey Gotell チェルシー・ゴテル Chelsey Gotell

© Keita Yasukawa

10%の視界であっても、100%の展望を持って

私は障がい者である前に、他の人たちと同様にひとりの人間です。障がいは私の人格を定義づけてはいませんし、日々それを意識しているわけでもありません。

どのような環境で育てられたのかということは、人格を形づくる大きな要素のひとつです。私が今このように思えるのは、普通の子どもとして育ててくれた両親、それから、普通の友達として接してくれた仲間の存在があったからです。

自分が他の人と少し違うことは否定できませんが、また同時に他の人と全く違いはないのです。視覚障がいで自分の能力を判断されたくありませんし、それを言い訳にしたことは一度もありません。

困難こそが人格を形成し、人を成長させ、強くします。失敗して再び立ち上がったときこそ人は磨かれ、究極の目標に向かい、更なる成功をおさめ、これまでの道のりを誇れるようになるのです。私は水泳を通じて培ったチカラで、それを実現してきました。水泳をしていなかったら、今の自分はなかったでしょう。

繰り返しになりますが、逆境に打ち勝つことで、大きな自信が得られます。そして揺るぎない自信が持てたとき、新しい世界への扉が開きます。その扉の向こうにはさらに困難が待っているかもしれません。しかし一度手にした揺るぎない自信を持ってすれば、また必ず乗り越えられるはずです。

こういった自らの経験を通し学んだことを、スポーツの更なる発展に活かしていけたらと思います。

スポーツは、私の人生を良い方向へと導いてくれました。そのことに感謝し、明るく、広い100%の展望を持って、私はこれからも歩んでいきます。

チェルシー・ゴテル Chelsey Gotell PLAY TRUE2020

チェルシー・ゴテル Chelsey Gotell

生年月日
1986年2月20日生まれ
国籍
カナダ
種目
パラ水泳

1986年、カナダ ノバスコシア州アンティゴニッシュ生まれ。
先天的に視覚障がいがあったが、野球、サッカー、バスケットボールを楽しむ幼少期を過ごす。特に8歳から始めた水泳では才能を発揮、わずか6年でパラリンピックに出場。

初出場となったシドニー2000パラリンピック競技大会では、カナダ選手団の最年少(14歳)。以降、アテネ(2004年)、北京(2008年)と3大会連続出場し、計12個のメダルを獲得した。

2011年に現役引退。現在は国際パラリンピック委員会(IPC)のアスリート委員長を務める。